チークは英語のティークから来た物で、元は南インドのタミール語のテックによると言われています。日本では明治の終わりには輸入されていて、文献にはチーキと書かれていると言われています。日本では、海軍船舶の甲板材に使われたのが始まりと言われています。

チーク(ティーク)について

原産地

樹種の分布は、アジア圏(インド、タイ、ビルマ、ラオス、カンボジア、ミャンマー)が主な産地で、植林施策としてインドネシア、セイロン島(スリランカ)、ニュージーランド等と、今では備蓄量を凌ぐ需要があるため、この樹属に近い樹木例としてローデシアン・チーク(アフリカ・ベイキュエア)など、代替品が次々と世に送り出されています。

チークは主に家具業界で、ウォールナット、マホガニーと共に世界3大名木と言われています。銘木と書かなかったのは、主にヨーロッパ家具業界が推すコマーシャルで、世界にはまだまだ銘木と呼ばれる樹木が沢山あるためです。

チークは既にインド、ビルマでは1~4等まで材質、色彩によりグレーディング(板別け)されていて、ビルマ北部と中国国境近く”カレニ”から産出(現在はありません)された材は、黄金(ゴールデンチーク)と呼ばれていました。現在は、モンミトから産出される材の事を黄金(ゴールデンチーク)と呼んでいます。

ステッキ

左:ビルマ産チーク素材と大曲りステッキ、右:幻のチーク(シクチーク、マハラジャチーク)

左:ビルマ産チーク素材と大曲りステッキ、右:幻のチーク(シクチーク、マハラジャチーク)

写真左は、ゴールデンチークとは異なりますが、ビルマ産チーク素材と大曲りステッキです。素材は綺麗な虎目が表れています。チークは油分を多く含み、壮大なその耐久性は抜群で、色艶もあり良材ですが、材の中に目に見えない石灰分を含んでいて、削り等、刃物等を傷付ける事が多く苦労する点があります。

写真右は、幻のチーク(シクチーク、マハラジャチーク)と呼ばれる材です。貴重な材なので、大曲り品と共に文具、木軸ペンとして残しています。

昭和4年と11年にインド綿貿易商から、当時あった東京京橋篠田銘木店(明治24年創業、現在は廃業されています。)に2度しか入荷しなかったチーク材で、普通のチーク材よりも年輪があったと言われていました。たまたま、昭和60年頃、静岡の材木店が持っていた3メートル×45センチ×9センチ盤一丁を分けていただいた材です。輸入当時から色彩に優れ、東京家具商に随分納材したといわれています。

何が秀でているかといえば、年輪、杢の細かさ、挽いた時の色彩です。たまに水の関係で、緑がかったチーク、根コブを持ったチークは見たことがありますが、ブルー(水色)は初めてです。

現在インドのどこで出材されたかは分かりませんが、シクチークといわれているので、恐らく北部パンジャブ州と思われます。このチークは、イギリス植民地時代、ターバンを巻いたシク族の傭兵騎乗兵の槍に用いられていたと聞きます。18世紀ムガル帝国インド支配下、この地方を治めていたマハラジャの玉座家具にも使われていたと言われています。

ブルーの色彩をした挽肌

ブルーの色彩をした挽肌

私もうっかりしていて、またその内どこかの業界からヒョッコリ出てくるだろうとタカを括っていました。その後、この材は見ていません。最近インド映画で、シク教徒の勇猛果敢(ゆうもうかかん)な活躍を描いた作品があると聞きました。当時別けていただいた方から、インド総督が持つ指揮棒の話やこの材についてのいろいろなエピソードは聞いたのですが、ハッキリと歴史的には語れないので、もう少し調べる必要があります(映画はKESARI/ケサリ21人の勇者達です)。

小物材より作られたマハラジャチークのランディングネット

小物材より作られたマハラジャチークのランディングネット

マハラジャチークで曲げた大曲りのステッキは、現在ラカッポには3本しか在庫がありません。

チーク(ティーク)のご紹介は以上です。続いて手違い紫檀(チンチャン・縞紫檀)をご紹介いたします。

ゴールデンチークを求めて~1990年平成2年レポート~

ビルマ(ミャンマー)北部モンミトは、名産地”カレニ”に次ぐ、ゴールデンチークの産地です。ビルマは、南北にイラワジ川を中央に挟み、東はタイ・ラオス・ベトナム・中国。西にバングラディッシュ・インドの合計6ヶ国と国境を接する国です。1824年の英・ビルマ戦争に始まり、大二次世界大戦(一時は日本が制圧した)後まで、英国に併合(へいごう)されました。その後、独立戦争が激化し、1948年に独立した国でもあります。現在まで、ミャンマー内の少数民族の圧政に対する不満や、特に平成2年前後は、この時代、共産ゲリラ・愛国戦線など、主義主張の違いから、内戦状態だった6ヶ国と国境を接しているので、各国の後立(うしろだて)の思惑が絡み合い、混沌(こんとん)とした国状です。

そんな中、タイからミャンマーの各組織勢力に渡りを付け(話し付け)、通訳と共にミャンマーのゴールデンチークを買い付け、日本に持ち込む段を試みる銘木店がありました。黒檀の買付でも紹介した新木場(株)ウガイ銘木社長、鵜飼一実氏です。

遠くに見える山を目指し、その麓(ふもと)にチークの林相があると言う(まるで山並みを見るとジェラシックパークですね)。

写真①:遠くに見える山を目指し、その麓(ふもと)にチークの林相があると言う(まるで山並みを見るとジェラシックパークですね)。

粗末な宿泊小屋に、現地の人々と侵食を共にし、山出しまで、毎日が緊張の連続だったと言います。近くの川の支流には、人間の遺体が流れて来たり、はるか遠くでは、銃声や迫撃砲の轟音が聞こえたそうです。

粗末な宿泊小屋

写真②:粗末な宿泊小屋

伐採地に入る前のチーク幼年林

写真③:伐採地に入る前のチーク幼年林

このようなチークの色目だと、サービスで試し取りをしてくれたそうです。

写真④:このようなチークの色目だと、サービスで試し取りをしてくれたそうです。

陸路でチーク材の集材・機械による搬出出来る伐採場は、既にタイ・ミャンマーでも無く、山出しの困難な地域だけが残っていて、全て紛争地域と重なります。当時も今も”木”の搬出には、”象”を使います。大規模な伐採では、100頭近い象が狩り出されると言います。全て象を使っての山出しとなります。

伐採地での”象”使い

写真⑤:伐採地での”象”使い

小川を使い少しでも軽く運搬出来るように上手く象を使います。

写真⑥:小川を使い少しでも軽く運搬出来るように上手く象を使います。

昭和40年代、タイ花梨材の象が引く材の穴跡

写真⑦:昭和40年代、タイ花梨材の象が引く材の穴跡

長尺・巾広材チークの象引き穴跡

写真⑧:長尺・巾広材チークの象引き穴跡

この穴は、目戸穴(めとあな)と言います。下流に下って、筏(いかだ)を組む時に役に立ちます(写真⑩「A」)。

目戸穴(めとあな)の略図

写真⑨:目戸穴(めとあな)の略図

急流組筏(のぼせ筏組)、「B」:中流組筏

写真⑩「A」:急流組筏(のぼせ筏組)、「B」:中流組筏

湾口から沖の海軍式、積み出し用筏組(筏床アミ式)。現地の人に日本人が筏組みを教えたと聞きます。

写真⑪:湾口から沖の海軍式、積み出し用筏組(筏床アミ式)。現地の人に日本人が筏組みを教えたと聞きます。

目戸穴(めとあな)が有る材を上手くデザインして使って欲しいですね。バーカウンターなど、傷としてカットするのでは無く、ジャングルで象と人間の関わりの証明として、来歴をバーテンダーさんから物語を聞くのも酒のつまみに、最高の夜咄(よばなし)です。

チークの若木は残し中径材を中心に伐採を心掛ける。

写真⑫:チークの若木は残し中径材を中心に伐採を心掛ける。

チークの若木は残し中径材を中心に伐採を心掛ける。

写真⑬:チークの若木は残し中径材を中心に伐採を心掛ける。

作業場を守ってもらったゲリラ組織の面々

写真⑭:作業場を守ってもらったゲリラ組織の面々

ネジリハチマキ姿は、鵜飼一実氏

写真⑮:ネジリハチマキ姿は、鵜飼一実氏

いくら冷静さを保とうと思っても、いくら自動小銃を構えたゲリラ組織に守られていたと言っても、心の中では恐怖があったと思います。同じアジア人種なので、毎日仕事で突き会わせていると、たとえ”作り笑い”などは、相手は直ぐに見破ります。心と心の真剣勝負だと言います。最終仕事が終わり、この地を離れタイの宿泊ホテルに無事帰還した時、始めて安堵感が沸いたと本人も言っています。

当時私もこの買付で挽いた材を見ましたが、黄金(こがね)色に正にゴールドチークでした。

鵜飼氏は、几帳面で全て買付スケジュールを書き留めていました。

全て丁寧にメモされて保管してある

写真⑯:全て丁寧にメモされて保管してある

当時バンコクは、輸入代理店を勤める華僑(かきょう)や現地業者が入り乱れ、日本からバイヤーの取り合いです。日本の業者も悪いです。伐採された丸太や、製品をお座成り(おざなり)に見ての検品すら、ろくにせず、夜な夜なタイバンコクの繁華街、パッポン通りで遊んでいた。また、現地妻ならぬ家一軒買与へ、メイド付きで養っていた豪気な銘木屋さんもいました。豪遊、この時のツケが今日廻って来た感があります。

黒檀の時も書きましたが、木を求める収集家ではなく、草の根を分けても鬼の形相で物を求める”蒐集家”でなければならず、違いが今になって、はっきり出た昨今です。

木族の会(樹種辞典)

ステッキの材料となる様々な貴重な樹種についてご説明いたします。

木族の会(樹種辞典)